迷い事に関する一つの考察

ある程度分別ある人であれば、誰もが直面しがちな『迷い事』。

迷いが発生するまでのプロセスは、おそらく、その人がもつ脳細胞の反応の癖と、経験や体験を通しての演繹的な性質がおおきく影響しているのだろう。
帰納法的に判断することは、以外に迷わずに無意識的に人は判断と決定のプロセスをコンマ何秒かで行っているはずだ。

あつあつのコーヒーを少しずつすするのは、やけどしないための判断に迷いがないためだ。
だが、砂糖やミルクを入れるか、二杯目を飲むかなどは意外に悩む人もいるはずだ。

極端に俯瞰して考えると、迷いなんてものの本質は実はどうでもよい判断思考の停止ではないかとさえ感じる。

迷うということは、主に個人の利害関係に影響を持ち、それまでの経験や体験、自己の反応の方法では処理しずらい未知の分野である可能性が高いと思う。

一方、結果がほぼわかっていながら、その判断を実行せずに未処理のまま、もしくは近い将来にほぼ確実に同じ決断をするのに保留状態のままの迷いがある。

とするならば、迷いは大きく二つに分類される。

類推などに基づいても判断がつけにくい、決定の難易度が高くブラックボックスで、なにかしらのリスクが高い迷いと、すでに決定されている、いわゆる帰納法で結論づけられる事柄に対しての決断や行動を実行するこをとためらっている迷い。

前者は明確に迷いということがいえるが、後者の場合、はたして迷い分類されるかどうかは、まさに迷うところだ。

すでに結果がほぼ決まっていることに対する迷いは、重要度や緊急性は皆無で、もはや迷いではなく怠慢や浪費であるとすべきだ。
では、なぜ多くの人は、この怠慢や浪費とされる迷いを先延ばしにするのだろうか。
そこには心理的な抵抗や摩擦や、事態が変わると思われる可能性や根拠のない希望的観測があるからだろう。

実にくだらない迷いであっても、すこし間を持つことによって、思いもよらない結果に展開することもある。決断を急ぎすぎることで、さらに悩みを複雑かつ肥大化させてしまうことも多いことがある。

であれば、この怠慢な迷いも十把一絡げに無駄で不要なものであるともいいがたく、恩恵が期待できる迷い事であることになる。

逆に、緊急性や重要性が高い迷い事を深刻に考えて迷うこともあるが、時空間の未来に存在する結果がひとつだけとするのであれば、迷うこと自体が無駄な立ち止まりであり、一見仰々しい迷い事ほど、結果に対して圧倒的な重力が働いている場合があり、未来において迷いが一切の意味を持たないこともあります。

ただこの重要な迷いも、やはり怠慢な迷いと同じで、迷うという意志決定をしている間に大きく迷いの原因や大きな重力が消滅してしまうこともあり、迷うという思考活動の対価を考える場合には、とても意味があることであったりする。

しかし、迷うという思考活動自体が全くもって無駄な場合も多く、矛と盾感が半端ないわけである。多くの人は、この相反する事実をどこかで感じながらも、怠慢や迷いと重要な迷いを繰り返している。

以上のようなことから考えれらるのは、迷いがほとんどなく無作為に決断を重ねる人というのは、頭がおかしいだけかシンプルな阿呆であり、逆に迷いすぎる人間というのも同様と考えることができるわけだ。ただし、ここでは阿呆が良いか悪いかは一切判断しないものとする。

であるから迷い事というのは、人の一生において多くの時間を費やし、選択という意思決定を際限なく求める、人間がもつ一種の防衛本能なのであると結論づけられる。